That Thought Note

日々雑然と想ったことをつづるノート

ブックシェア~自分を知り、他人を知り、拡げられる場

ブックシェアという本を共有し合う集まりに参加してきました。

 

この会は自分が面白かったと思う本を紹介しあって、
興味のあるものを借りることができる場です。
今回は2回目の参加だったわけですが、
参加するたびに面白い発見があります。

 

一つ目は、自分が好きなものだったり、影響を受けた本のことを、
なぜそう思ったのかを振り返る機会になることです。
人にオススメするためには、自分がどう思ったかを
整理するプロセスが不可欠です。
このプロセスを通して、
自分を見つめなおすいい機会になります。

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二つ目は、他人に紹介することで、
自分の思考の枠組みから一歩出ることができる要素です。
自分の立場からだけでなく、紹介する対象である他人の視点に立ったとき、
どういう表現をすれば届くのかを練りこむ必要があります。
つまり、プレゼンテーションの訓練になるわけですね。

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そして、三つ目は、
そうした自分の価値観からは出会うことができない
本と出会える貴重な場となることです。
僕の本との関わり方を振り返ると、
ほとんどがはっきりとした目的意識を持ったうえで、
Amazon 様でポチっとしてしまう流れが多いと感じます。
あとは、Amazon 様が機械的にオススメする本をついでに
買っちゃったり、ソーシャルメディアで面白いとされてるものを
買っちゃったり、自分の周りにいる人からの影響で
買っちゃったり、ということがメインになってます。
そうすると、やはり偏ってしまうというか、
ものすごく意外な出会いをするチャンスはなかなか訪れません。
ブックシェア会では、
普段接点がない人たちが、
どう感じたかという視点で本と出合うことができるので、
意外な分野に興味をもつきっかけになったりします。 

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本というメディアを共有する体験を通して、
自分の嗜好を掘り下げて知り、
そこに他人という存在を介在させ、
さらに外からの影響で拡げるという意味で、
とても面白い場でした。

 

ちなみに今回僕がシェアした本は
ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) で、
お借りした本は
福祉の思想 (NHKブックス 67) です。

 

アウトプットに対してのインプットが全く違ってて
改めて面白いですw
自分の中では繋がってるんだけどね。 

メタボリズムの未来都市展

森美術館で開催中の「メタボリズムの未来都市展」に行ってきました。

メタボといっても、太ったおじさんとは関係ありません。
日本語に言い換えると、「新陳代謝の未来都市展」という意味になるのですが、
パッと聞いただけでは何を意味しているのかわかりませんよね?
僕もそれを探るために足を運んでみました。
http://www.mori.art.museum/contents/metabolism/index.html  

  

僕は建築については全くの門外漢なので、今日この展示会を見て初めて知りましたが、
戦後日本の建築界では、
本来は物理的に静的な建築物や都市を生命に例えて
新陳代謝を根底に据えて設計するムーブメントが主流になっていたそうです。
丹下健三をはじめ、磯崎新川添登黒川紀章菊竹清訓槇文彦らが提唱したコンセプトで、
その始まりと発展の軌跡が時系列に展示してありました。 

 

折しも、1950年代は戦後の高度経済成長期の始まりで、
戦争で破壊された古い町並みをいかにして近代的に再生しつつ、
日本本来のよさを残していくかということが課題でした。
メタボリズムというコンセプトは、
そこにまさにマッチしたものだったといえます。
丸っと別のものに生まれ変わるわけではなく、
もともとの本質を残しつつ、
状況に合わせた形に変容していくことが求められていたわけです。 

 

その走りとなった建築が晴海高層アパート。
近頃流行りの高層マンションではなく、高層「アパート」なので、
10階建てがいいところの集合住宅なわけですが、
急速に成長する経済と生活様式に合わせるため、
2×3の6部屋を1つのフレームモジュールの中に組み込み、
状況に合わせて改修できるようにしてありました。

他にも、大きなワンルームの間取りを
核家族のライフステージに合わせて有機的に組み替えられるスカイハウスなど、
建物という単位で新陳代謝を織り込んだ建築が登場した時代です。

 

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1960年代にはこのコンセプトを建物の集合体に適用した
群造形へと受け継がれていきます。
海の上に聳え立つ円柱のコアを中心に
取り換え可能なムーバブル・ハウスというユニットがとりまく形の
海洋都市という突拍子もない設計が生まれたりしています。

これまで建築家が取り組んでいた部屋という空間が1つのユニットとなり、
共通基盤として必要な機能がまとめられたコアを中心に
必要に応じて組み替えられるというコンセプトに昇華されました。 

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このコンセプトはやがて
メガストラクチャーと呼ばれる思想にも取り入れられ、
建築物の集合体を一つの設計対象として生命になぞらえるようになります。
ついには東京の都市全体を、
大胆にも東京湾上に線状に伸びる存在として設計するなんていうプロジェクトも。
ここまでくると、
もう、やることなすこと非現実的とも思えるめちゃくちゃぶりですが、
ここでもヒューマンスケールを都市レベルに拡大解釈して、
一つの生命体として新陳代謝させるというコンセプトが生きています。

 

その後も、このコンセプトが都市から環境へと拡大解釈されていき、
スケールがどんどんと大きくなっていくわけですが、
僕には一つだけ腑に落ちない点がありました。

新陳代謝ときいて一番最初に思い浮かべたのが、古い組織の破壊と死です。
不要な組織がはがれおちてはじめて新しいユニットが誕生する余地が生まれると思ってました。
戦後の高度経済成長期の時代は、
戦争や災害という建物の死が外的要素として存在していました。
でも、そうした破壊の外的要素がなくなった状況では
新陳代謝をコンセプトに据えた建築や都市も拡大を繰り返す他なく、
いつか行き詰ってしまう運命にあるように思えました。
現実を見ても、メタボリズムのコンセプトで建てられた実際の建築物も
結局古いユニットを組み替えたり
新しいユニットに置き換えるような具体例が見当たりませんでした。

 

死を内包し、死滅した組織が積み重なっていったり、
これから生まれる新しいユニットの礎となるような建築が生まれたら
すごく面白いのになぁ。

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いずれにしても、
この展示会を通して、建築がロジカルなファンタジーとして思想を膨らませて
そのほんの一部が現実世界の建築や都市設計の大きな躍進に貢献しているんだと
感じることができました。
建造物や都市を生命になぞらえるなんて、絶対頭おかしい。(褒め言葉) 

 

個人的に面白かったのが、
こんな壮大な建築界のムーブメントが
意外といい加減な発端から始まっていたということw
川添登さんのインタビューでその流れが語られているので、
足を運ばれる方はぜひ探して観てください。

 


メタボリズムの未来都市展は六本木ヒルズの森美術館
2012年1月15日(日)まで開催予定です。 

Run!

facebook や twitter で僕のフィードを目にされている方の中には、
夜中の24時過ぎに何kmとか走ったとかいうアプリからのポストを見て
「なんでこいつはこんな時間にこんな走ってるんだ?」と
不思議に思われた方もいらっしゃるかと思います。

 

走ることを習慣とするまでは、
僕も日常的に走ってる人の話を聞くと同じ感想を持ちました。
単調で時間もかかるし、なにより疲れるじゃん、と。
でも、今では完全に自分のライフスタイルの一部と化していまい、
走らないでいると気持ち悪く感じるようになっちゃいました。

 

一度振り返って、なぜ走り続けているのかを考えてみると、
大きく分けて4つの理由があることに気付きました。

 

1つ目は、めちゃありきたりですが、
実際に走り始めるきっかけとなったダイエット効果です。

自分が当てはまる30代オフィスワーカーの男性を例にとって
カロリーのデータをみてみると、

  • 1日の基礎代謝:1500kCal弱
  • 1日の摂取カロリー:2200kCal

てな感じになります。
痩せるためには摂取カロリー量を限りなく基礎代謝量に近づけなくてはいけないので、
食事制限でこの700kCalを削ろうとするとかなりの負担です。

 

実感が湧きにくいので、身近な例を挙げてみると、
誰もが大好きなビッグマックのLLセットをレギュラーコーラで流し込むば
1食で軽く1200kCalを超えちゃうわけで、
上記セットにチキンフィレオとかをつけちゃう自分にとってはかなり厳しい目標。

そこで、カロリーを消費してやろうと走り始めたわけですが、
体重60kg弱の自分が10kmの距離を1時間かけて走れば
一気に600kCalも消費できちゃいます。
そう、ビッグマック1個分の罪がチャラになるわけです。

走ればハンバーガーを1個多めに食べられる。
これはやめられませんね!

 

2つ目の理由は、
これまたありきたりな体質改善効果です。

最初は2km走るだけで息はゼイゼイと上がり、
体中の血行が良くなりすぎてかゆくなるという体たらくでしたが、
2~3日に一度の周期で1か月も走れば、
息はほとんど上がらなくなります。
人間の身体適応力は大したもんです。 
(※効能には個人差があります。) 

あとで調べてわかったのですが、
どうやら20分以上継続して息が軽く上がるくらいの運動を続けると、
身体の脂肪を燃やす代謝がよくなって、
効率よくエネルギーに変換できるようになるみたいですね。
この代謝向上のメカニズムがダイエットにも効いてくるわけですが、
何よりも息が上がらなくなるという形で実感することができます。

 

ひとたびこの体質を手に入れると、
もったいなくて手放したくなくなります。
ゲームに例えていうならば、なんかこう、
目に見えないパッシブスキルを手に入れた気分ですw

 

3つ目は、
自分でもちょっと意外だった、身体との対話ができるようになる点です。

始め、ランニングやマラソンというのはスタミナ勝負の
世界かと思っていましたが、記録を目指すのではない限りは
スタミナは大きな問題ではないことに気付きます。
どちらかというと、個人の身体や動きの特質を認識して、
それを調整・改善する方が重要です。 

ペースさえ上げなければ、
脂肪の代謝が良くなることで息は上がらなくなりますし、
疲労物質の代謝が上がれば筋肉痛にもならなくなるので、
正直スタミナ面ではあんまり苦労しません。

それよりも大変だったのが、
シューズやランニングフォームの相性からくる靴ずれだったり、
反復運動が原因で発生する身体の故障の方。
意外にも、これらはトレーニングを積めば積むほどリスクが上がるものでした。 

長期間、それなりの距離を走り続けるには、
身体の違和感や痛みをいち早く察知して、
それを和らげる方法を見つけなければなりません。
ストレッチの重点を変えてみたり、
ランニングフォームを変えてみたり、
走るコースを変えてみたり、
身体の状態に耳を傾けながらあらゆる要素を調整するプロセスが
自分にとっては新たな発見でした。 

 

最後にして最大の走る理由は、
自分でも思いもよらなかった、精神的な側面にあります。
走ることで、感情や思考が整理できる点です。 

走っているときは音楽を聴くことくらいしかできず、
基本的に単調なリズムで身体を動かし続けることになります。
有酸素運動で、脳も軽い酸欠状態に。
この状態が集中してものを考えるのにとても適してます。
余計なことを考える余地がなくなるので、
普段悩んでいることや、思ってることをシンプルに煮詰めることができて、
いつしか走る時間がかなり重要な時間になりました。

 

思えば、1時間物事をじっくり考えるような習慣って、
日常生活ではなかなか確保できません。
そこに、反復運動と酸欠状態まで重なるので、
思考に逃げ場のない状況が作り出せます。
集中して考えるにはもってこいの時間です。 

 

こうした理由のどれもが、
走ることを続けることでしか得られないもの。
最初はただつらいだけでしたが、
今は走ること自体が面白くなっています。

 

最近は東京マラソンの影響か、
ランナー人口がグッと増えて、装備も施設も充実してきています。
軽くまわりを見回せば、身近にも走っている人がきっといるはず。
皆さんもだまされたと思って、
とりあえず走り始めてみて、
自分なりの続ける理由を見つけてみませんか? 

 

というわけで、僕は今年も走り続けます! 

That Thought Note

2012年辰年。
喪中につき、新年を祝うご挨拶はあえてしませんが、新しい年の幕開けです。

 

本当にいろいろあった2011年が終わったタイミングを機に、
人生初のブログを始めてみたいと思い、
That Thought Note なるモノを開設してみました。
「ざっそうのーと」とでも発音するものと勝手に決めていたり。

 

ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、
「雑想ノート」と言えばかの有名な宮崎駿先生が出版された短編集。
http://amzn.to/tvl5er
はい、ご明察。完全にそのパクりです。 
ただ、その名をそのまま拝借したのではいろいろとマズいと思い、
語呂と意味がなんとなく近くなる英単語をあてはめて、
このブログのタイトルとしました。
これだったらインスパイアですむかな、と。 

 

というわけで、
ここでは僕が日々雑然と想ったことなどを書き連ねていきたいと考えてます。
twitterfacebookなどのソーシャルメディアが日常のインフラと化した今、
僕自身、100文字やそこらの文章を吐き出して、
刹那的な共感を得ることに満足してしまっているフシがあります。
でも、それだけで終わってしまっては、
はたして自分の血肉になっているかどうか、
あるいは人様のお役に少しでも立っているのか、大きな疑問です。
というか、はっきり言ってなってません。
でも、そういうちょっとしたツイートやポストを重ねることで、
自分の中に想いの「点」が蓄積していきます。
それがたとえば、家族や友達と話している中で、
点同士がなんとなくつながった「線」になっていくことが多々あります。
逆にいうと、そういうプロセスを経て、
雑然とした想いが考えに変化していくもんなんだな、と。 


元ネタの「雑想ノート」も、もとは宮崎駿先生の想像から生まれた点の集合体です。
その点がだんだんとつながりながら線をなしていき、
数々のジブリ傑作の元となる物語をつむいでいます。
なので、このブログのコンセプト自体が
敬愛する宮崎駿先生のプロセスに少しでもあやかりたいという
邪な考えの上に成り立っていることは言うまでもありません。 

 

願わくば、点が線になっていくプロセスが、読んで下さる方々にとっても
何かのきっかけになるような共有体験でもあってほしいです。

 

新年早々の三日坊主にならないことを祈って、
これを That Thought Note の最初のエントリーとします。